The Study of Bag End

ホビット庄のところざわ考察 ―『指輪物語』最新版の改訂考察

“ところざわ”と聞けば、関東に縁のある人は埼玉県所沢市を想起すると思います。しかしながらここでは改訂によりところざわに変更された地名について考察します。

と、その前に。引き合いに出した埼玉の所沢の地名由来が気になった人もいるかもしれません。所沢の地名由来はこの考察には関係ないので触れませんが、興味がわいた方のためにリンクを張ります。ご覧になったら戻ってきてくださいね。

ところざわの元の地名は?

それでは、ホビット庄のところざわの話をはじめましょう。

2020年の『指輪物語』改訂に伴い、ホビット庄のとある集落が “ところざわ” に変更されました。袋小路からバック郷を目指す道中でのピピンのせりふを引用します。

ぼくは日の()りまでにところざわの金(ます)館でちょっと一杯やっていけるとあてにしていたんだけどなあ。東()が一の(しょう)じゃ一番うまいビールだもの。
『指輪物語 旅の仲間』「四 茸畑への近道」 Apple Books(バージョン1.0)より引用、強調は筆者による

ここをお読みになってぴんと来ましたか? 新版でどんな名前だったのかを引用します(不要な人もいるかもしれませんが)。ピピン・トゥックさんの声でお読みください。

ぼくは日の()りまでに切株村の金のとまり木館でちょっと一杯やっていけるとあてにしていたんだけどなあ。東()が一の(しょう)じゃ一番うまいビールだもの。
新版『指輪物語1 旅の仲間 上』「四 茸畑への近道」 158頁より引用、強調は筆者による

うまいビールの話も気になるところですが…

「切株村」から「ところざわ」へ変更とは、印象がガラッとかわりませんか? この思い切った固有名詞の変更は正直に言えば驚きました。すぐ次の固有名詞、「金のとまり木館」から「金鱒館」への変更も探りたいところですがそれは別のところで書くこととしてまずは「ところざわ」です。

Stock
旧版
切株村
新版
切株村
最新版
ところざわ(1)
旧版、新版、最新版とは?
(1) Apple Books バージョン1.0では原語 ‘Stock’に対して「ところざわ」と「ところざわ村」の二つの表記を見つけましたが、「村」がつくのは一箇所のみ。ですので、ここでは「ところざわ」表記が正という認識のもとに書きます。また「追補篇」の「固有名詞便覧」は変更されていませんが、こちらは変更が未対応なのではないかと思います。

新版まで「切株村」として対応していた ‘Stock’ は、最新版で「ところざわ」に変更されました。約50年もの間、日本の読者にとっては「切株村」だったのですから、慣れるには少し時間がかかりますね(この間にいったい何世代の人たちが『指輪物語』を読んだのでしょうか)。

ともかく、どんな理由でこの変更をすることになったのでしょう? 1972年刊行の旧版までさかのぼってまずは「切株村」と翻訳された理由を探ってみます。

「切株村」だった理由は?

切株村/ところざわの英語は「Stock」です。「ストック」とカタカナにして日本語でも使われることがありますね。思いつくのは蓄えや在庫の意味で使うストックに、デッドストック、株券など。うーん、でもそれでは「切り株」とは意味が離れていますから辞書を引きました。

(木の)切り株, 〘植〙幹, 茎; 地下茎.
ジーニアス英和辞典 第5版(大修館書店)より引用

「stock」(名詞)の17番目に載っていたのはジーニアス英和辞典。英和辞典はもう一冊持っていますが、こちらには「切り株」は載っていませんでした。ですが、どちらの辞書も語源に「木の幹、切り株」と書かれていました。また、英英辞典ではこうです。

Old English stoc(c) ‘trunk, block of wood, post’, of Germanic origin;
Oxford Advanced Learner’s Dictionary, 10th edition (app edition) より引用

「stock」という英単語は、ゲルマン語派を起源とする古英語 ‘stoc(c)’ に由来しますよーとのこと。

木の幹(trunk)、木の塊(block of wood)、ポストは郵便ポストとかインターネットで何かを投稿することとか、役職を思い浮かべましたが、「支柱」などの意味もあるんですね。ここでいう post はそのことだと思いますが、今回は関係がないので立ち入りません。

これまで述べてきたようなことから「Stock」を切り株として翻訳したのだろうとうかがえます。「切株村」という地名から風景を想像すると、どうですか? わたし個人としては、切株村には木こりが住んでいて周辺には深い森林がありそうな印象を受けました。

それではいよいよ本題の「ところざわ」について探っていきましょう。

どうして「切株村」が「ところざわ」になったの?

ホビット庄の地名の改訂について考察した時と同じく「『指輪物語』の名前 (Nomenclature of The Lord of the Rings)」を参照すべくウェイン・G・ハモンドさんとクリスティナ・スカルさんのご著書『指輪物語:読者のための手引書(The Lord of the Rings, A Reader’s Companion)』を持ってきました。

地名の「S」項目は同書の765ページからはじまりますが、「Starkhorn(荒角山/スタークホーン)」の次の項目は「Stonewain Valley(石車谷)」。残念ながら載っていませんでした。

最初の要素「ところ」

諦めるのはまだ早い。

『手引書』の索引から「Stock」を引きます。Stock は二つ載っていますが、イタリック体でないほうが今回の目的の「Stock」です。ありがたい! さすがです! 求めていたものが見つかりました。

The name Stock probably drives from Old English stoc ‘place’. It is common in English place-names as stoke or stock, but usually combind with some other element.

拙訳
Stock の名称は古英語で「場所」を意味する stoc に由来するものだろう。英語の地名では stoke や stock としてよく使用され、たいてい他の要素と組み合わせられる。

Wayne G. Hammond, Christina Scull, The Lord of the Rings: A Reader’s Companion, 60th Anniversary edition, 2014, p. 95

今回の翻訳を見ているとこの『指輪物語:読者のための手引書』は大いに参照している印象を受けます。たぶん「ところざわ」への変更もここを参照したと考えています。

そういうわけで、あっさりと「切株村」ではなくなった理由が明らかになりました。 Stock は「切り株」ではなく「場所」だったんですね。

『指輪物語』は、トールキン教授が「西境の赤表紙本」を英語に翻訳したという体裁です。もとは英語ではない言語で書かれていたのです。それでトールキンが英語にした部分は、翻訳時にその土地の言葉に翻訳するように、と指示をした話は有名かもしれません。「Stock」は「『指輪物語』の名前」への指示はないものの英語の地名であることは上で辞書を引いた通り明らかです。

つまり先ほどハモンド先生とスカル先生の『手引書』の通り、実際のイギリスの地名で stock や stoke のつくものを調べてみれば、もう少し詳しいことがわかるかもしれません、さっそくイギリスの地名辞典『A Dictionary of British Place-Names』を参照してみます。

以下は古英語の初心者によりますので(引用部以外は)、ご利用になる際は必ずご自身で辞書などを確かめてください。また、登場するイギリスの実在の地名はトールキンに縁のある場所もない場所もあります。いずれにも関わらずその固有の地名からトールキン教授が命名のインスピレーションを得た話ではありませんので、この点はご留意ください。

それではまず stoke から。この辞典では古英語(Old English)のことを「OE」と省略します。

Stoke, a very common name, from OE stoc ‘outlying farmstead or hamlet, secondary settlement’;

拙訳
Stoke よく見られる名前、古英語の stoc 「郊外の農場(と建物)や小村、二次的な集落」に由来する

David Mills, A Dictionary of British Place-Names (Oxford Quick Reference), Kindle edition

なるほど、「場所」よりもう少し限定的な意味で使用する場合もあるんですね。

ストークのつく地名をさらにあげると、トールキン教授の長男で司祭になったジョンさんがいたストーク゠オン゠トレント(Stoke-on-Trent)。ストークのつく地名は検索するとたくさん出てきますが、トールキンファンとして楽しい発見はアールストーク(Erlestoke, OE eorl + stoc)でした。ローハンの初代王エオルも同じく Eorl とつづる ‘nobleman’ です。もしかしたらこう古英語に翻訳された地名がローハンにあったかもしれません。

それでは次に stock を調べてみます。

Stock, Essex. Herewardestoc 1234, Stocke 1337. ‘Outlying farmstead or hamlet of a man called Hereweard’. OE pers. name + stoc. The longer name remained in use until the 17th cent.

拙訳
Stock エセックス[にある]。1234年に Herewardestoc、1337年に Stocke [とつづった]。「Hereweard と呼ばれた男の郊外の農場(と建物)または小村」を意味する。古英語の人名 + stoc 。長いほうの地名は17世紀まで使用された。

David Mills, A Dictionary of British Place-Names (Oxford Quick Reference), Kindle edition, 拙訳[]は内筆者註

ここは Hereward さんの土地ですよと示された地名だったのに最終的に「土地」の要素しか残らなかったなんて、 Hereward さんが知ったら残念に思うかもしれません。こんな風に、 stoke にも stock にも「◯◯と呼ばれた男/女の場所」という由来の地名はこの地名辞典に多数載っていました。

余談ながらこの Hereward さんの Here の部分は、ヘレファラ(Herefara)やドゥーンヘレ(Dúnhere)といった、トールキン教授が古英語を用いたローハン人の名前にも出てくるので同じ要素だったりするかもしれません。

stock も他の要素と組わせて使うと、ハモンドさんとスカルさんの『手引書』には書いていましたね。他の地名はどうでしょうか? トールキン教授が住んでいたオックスフォードから車で15分ほど北に向かったところにウッドストックという町があります。オックスフォードからそこまではウッドストック通りを使っていきます。

Woodstock Oxon. Wudestoce c.1000, Wodestoch 1086 (DB). ‘Settlement in woodland’. OE wudu + stoc.
David Mills, A Dictionary of British Place-Names (Oxford Quick Reference), Kindle edition

訳は省略しますが、オックスフォードシャーにある「森の入植地」という古い歴史のある名前です。この町にはトールキン教授は訪問したことがありますし、オックスフォード市内にはここへ向かう道路としてウッドストック通りもあります。

このように地名の語義を知り想像できるようになるのは楽しいですが、注意すべき点が一つ。現在のイギリスの地名を見ると stock は「切り株」の意味で使用されていることもあるので、地名を語るにはやはり辞典は手放せません。以下は stock が「切り株」(古英語で stocc)の意味で使用されているストックブリッジです。

Stockbridge Hants. Stocbrugge 1221. ‘Bridge made of logs or tree-trunks’. OE stocc + brycg. The same name occurs in other counties, see following names.
David Mills, A Dictionary of British Place-Names (Oxford Quick Reference), Kindle edition

丸太または木の幹でできた橋、という意味になります。もしもブランディワイン橋にかかる橋が木製だったら(ブランディワイン橋はもとは石弓橋 Bridge of Stonebows といううことから石造りであることがわかります)、ブランディワイン川にも近い Stock の地名は「木」なのか「場所」なのか紛らわしい地名になったかもしれません。

ストックブリッジのように古英語 stocc が使用される場合は切り株の stock ですが、stocc を stoc と表記する場合もあるようです。引用した英英辞典に stoc(c) と書いてあったのもこれが理由だと思いますが、場所の stoc との判別が難しすぎます…。

話が脇道へ逸れてしまいましたが、こうしてイギリスの地名を紐解くことで、ホビット庄の Stock は、「切り株」より「ところ」と訳する方がトールキンの意図により忠実であるとわかりました。

ところで今回の変更は「ところざわ」でしたが stock の意味に「さわ」の要素は含まれていないことにお気づきでしょうか? どうして「ところ“ざわ”」なのかを最後に考察して、この記事を終えることにします。長くなってきましたが、もう少しお付き合いください。

後の要素「ざわ」

「ところざわ」となったのは、たぶん「ところ」という名称の地名にはしにくかった点にあると思います。北海道には常呂町がありますけれど、これはアイヌ語由来の地名ですよね。それはホビット庄の地名を日本語へ翻訳するには適切ではありません(※翻訳の指針の観点では)。

ところで、初心にかえって「さわ」の意味を確認してみませんか。手元にある国語辞典二つでは順番は違えど、二つとも同じ語義を載せていましたので一つご紹介します。

①くぼんでいて、草の生えている湿地
②山間の、源流に近い谷川
新明解国語辞典 第八版, 三省堂(物書堂版)

ホビット庄のところざわの場合は①湿地が該当します。なぜなら『指輪物語』付属の地図「ホビット庄の図」を見ると明らかなように、ブランディワイン川の近くにあり、この一帯は沢地なんですよね。地図には「沢地」と書いてありますが、本篇中では「沢地の国」とも書かれる通り、この特徴が地名になっているんですよね(英語では Marish)。 トールキン教授による説明「marish とは英語の古い形」(『手引書』773頁)からも、湿地帯であることがわかります。

ですから、「切株村」という名前から想像するような森林地帯ではなく、大きな川に近い湿地帯なんですね。袋小路のあるお山のあたりとは風景が幾分違いそうです。ホビット族は靴をはかないことで有名ですが、沢地の国のホビットたちは雨でぬかるむと長靴をはいたことが『指輪物語』の「序章」に書かれています。

ところで「さわ」要素に関しては、翻訳するにあたっていかにも地名らしいものにするために、土地の性質を「ところ」にくっつけて「ところざわ」とした、という推測しました。埼玉の所沢はこの地名のヒントにはなったんじゃないでしょうか。けど、意味が全然違うことはここまで読むとおわかりいただけるのではないかと思います。ない要素をくっつけるのはどうか、という議論もあるかもしれませんがここでは省略します。

以上が切株村からところざわへ変更された地名の考察です。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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参考文献

参考文献は「日本語版『指輪物語』の改訂(2020年)特集」に掲示しています。