The Study of Bag End

漢字からカタカナ表記に変わったローハン語の地名―『指輪物語』最新版の改訂考察

中つ国北西部には、ホビット族、人間、エルフ族、ドワーフ族が概ね、各種族ごとに国や居住地がわかれて暮らしています(ブリー郷は除く)。ホビット庄、裂け谷、ロスローリエン、ローハン、ゴンドールなど。みんな独自の文化を持っていて、ふだんはそれぞれの国の言葉を使っています。

それでもビルボやフロド、旅の旅の仲間がよその国の人たちと会話できているのは? 西方語とも共通語とも呼ばれる言語があるおかげですね。この言語は中つ国北西部で広く使われていました

オークでさえ、居住地が違うとコミュニケーションができないという理由で西方語を使います。トールキンの世界はオークでさえバイリンガル。フロドがロスローリエンで出会ったガラズリムの中には西方語を話さないがゆえに、会話ができないエルフたちもいました。

早々に話がそれてしまったので本題に戻します。『指輪物語』はトールキン教授が西方語から英語へ翻訳したという体裁。ざっくり言うと、西方語以外の言葉はホビットにとって外国語なんですよね。エルフ語もローハン語も、クズドゥル(ドワーフ語)だってそうです。

ご存じの通り、日本語は外国語をカタカナで輸入する文化があります。ロスローリエン、ゴンドール、エレギオン、エドラス、カザド=ドゥームなど多くの固有名詞がカタカナで表記されています。一方でホビトンとも呼ばれることもある Hobbiton は「Hobbit の要素は翻訳せず残す」、「ton の要素は翻訳する」とトールキン自ら説明しています。それで Hobbiton の日本語では「ホビット村」になるわけです1

トールキン教授は「翻訳」するにあたって、ローハン語を古英語に置き換えたと説明します。古英語は現在使用されている英語の祖先です。12世紀頃までイギリスで使われていました。教授が西方語を英語に、ローハン語を古英語に置き換えたのは、西方語とローハン語に、全く同じではないにしろ英語と古英語のような関係があったから。2

これらを組み合わせて考えるとローハンの地名の日本語訳は、古語として残っている地名にはカタカナへ、現代英語化された地名には日本語へ翻訳されるということになります。

新版まではこれらの区別が曖昧でしたが、最新版ではトールキン教授がそれぞれの単語に残した指示が反映された翻訳に変わっています。この記事では1992年に改訂された新版までは日本語(漢字)表記で、この度最新版でカタカナ表記に変更されたローハンの地名を扱います。

旧版、新版、最新版とは?
※以下に取り上げる『指輪物語』最新版の地名は、Apple Books バージョン1.0(※追補篇のみ1.1)で確認しました。一つの固有名詞の原語に対して複数の表記があるものが散見され、特に固有名詞便覧は多くの固有名詞で変更されていないように見受けられます。そのため後に変更される可能性もあることを考慮してお読みください。

日本語からカタカナに変わったローハンの地名

西の谷からウエストフォルドへ

Westfold
旧版
西の谷
新版
西の谷
最新版
ウエストフォルド
※原語 ‘Westfold’ に対して「ウストフォルド」と「ウストフォルド」の二つの表記が見られました。ここでは仮に「ウエスト」を採用します。

「西の谷」から「ウエストフォルド」へ変更されました。

指輪戦争の時代、ウエストフォルドの領主はエルケンブランドでした。ヘルム峡谷はウエストフォルドにあり、角笛城はエルケンブランドの居城なんですよね。ヘルム峡谷は映画ではただ避難所として描かれた(し、殿のかっこいいところはエオメルに譲られた)ので、こうしたローハンの地理はわからずややこしいのですが、ヘルム峡谷での一連の場面を読んでいるとウエストフォルドの土地の人たちに何度か言及があります。

「西の谷」から「ウエストフォルド」に変わったということは、ウエストは西とわかるとして「フォルドは谷という意味を持っているんだろうな」と思うかもしれません。英語辞書を引いてみると、たしかに fold は「窪地」とか「谷間」を意味すると書かれています。きっとこれまでの日本語訳もこれを根拠に「西の谷」という翻訳にしたんだろうなと思います。けれど、トールキン教授はフォルドを谷という意味で使っていないんですよね。

トールキン教授が翻訳時のルールを書いた覚書「『指輪物語』の名前」(『The Lord of the Rings: A Reader’s Companion』に収録)は、日本で『指輪物語』の最後の巻が刊行された年に世に出ました。ですから、この点において翻訳者はこの情報にアクセスできなかった点を考慮すれば、教授の意図を汲んでいなかったのは仕方がなかったのではないかと思います。けれど、こうした地名は些細ながらローハンの地理を理解する手がかりにもなるのです。同覚書に、トールキン教授はウエストフォルドの意味を「谷」ではなく「土地、陸地、地帯(earth, land, country)」3と説明しました。ローハンのあたりを読むときには思い出してみてください。

ウエストが翻訳されない理由は、次のイーストフォルドの項をご覧ください。

東谷からイーストフォルドへ

Eastfold
旧版
東谷
新版
東谷
最新版
イーストフォルド
※固有名詞便覧中では「東谷」表記のままでした。おそらくここは変更し忘れだと思うので本編中の「イーストフォルド」を最新版の訳語として扱います。

白の山脈を源にし、エドラス付近から平野部に流れ、最後はエント川と合流する雪白川を境に「ウエストフォルド」と「イーストフォルド」にわかれます。二つの領土は川を挟んで対になっているんですね。王宮近くで政治的な境界があるのは納得できますよね。

そういうわけで、「東谷」は「イーストフォルド」に変わりました。この方角の要素の部分は、ローハン語なので訳さないようにと、トールキン教授の指示があります4。とすればウエストも同様ですね。

フォルドは谷ではないという話は、ウエストフォルドの項をご覧ください。

西エムネトからウエストエムネトへ

Westemnet
旧版 新版
西エムネト
最新版
ウエストエムネト
※固有名詞便覧では「西エムネト」表記のままでした。ここでは本編中の「ウエストエムネト」を最新版の訳語として扱います。イーストエムネトについても同様です。

旅の仲間の一行が離散した後、アラゴルンとレゴラス、ギムリはメリーとピピン救出のため、ローハンの平原を駆け抜けます。その通り、エムネトは「平地、平原」という意味。ローハンの言葉であるのでそのまま残すように、とトールキン教授は指示しています5。イースト、ウエストを漢字にしないのはウエストフォルド、イーストフォルドと同様ですね。そして「東エムネト」も同じように「イーストエムネト」に変更されました。

イーストとウエストつまり東と西は、太陽が昇り、沈む方角だから方向感覚もつかみやすかったんじゃないでしょうか。映画ではアラゴルンたちが傾いた太陽に向かって走る場面がありますが、彼らは西から東でなく、東から西へ向かっていたのであの時間帯は夕暮れ時ということもわかりますね。

方角が含まれる地名はここまでです。では、次に行ってみましょう。日本語に訳されていた地名からカタカナになったものは、まだ他にもあるんです。

おぼろ林からディムホルトへ

Dimholt
旧版
おぼろ林
新版
おぼろ林
最新版
小暗い林ディムホルト
※固有名詞便覧中では「おぼろ林」表記のままでした。

「おぼろ林」は、死者の道に向かう途中にあります。死者の道とおぼろ林という組み合わせは不気味に感じませんか? ローハンの人たちがいかに死者の道を恐れていたのかを物語っているようにも思えます。

『指輪物語』には「おぼろ」のつく地名がいくつか登場しますよね。霧ふり山脈、モリアの東側の「おぼろ谷」に、新版まではイヴンディム湖だった「夕おぼろ湖」(今回改められました)。原語は Dimrill Dale に Evendim です。そしてこの「おぼろ林」は Dimholt です。

「おぼろ谷」は改訂されないし、「夕おぼろ湖」はわざわざ改められました。どうして「おぼろ林」はそのままじゃいけなかったんでしょう? この理由もやはり、トールキン教授が「『指輪物語』の名前」に書きました。

dim は今も英語にあるが、この名前はローハン語で名付けられたものだから変更せず残さなくてはならない([dimは]ここでは古い意味の「隠れた、秘密の obscure, secret」を用いる)。holt も同じく、時折詩的表現に使用される。6

トールキン教授の指示は明快です。日本語訳でおぼろ林よりディムホルトのほうが適切である理由はこのトールキンの説明の通りです。

ところで最新版の『指輪物語』では Dimholt は必ず「小暗い林ディムホルト」と訳出されています。これは三度出てきます。

ディムホルト直前の「小暗い林」はディムホルトを説明するために二重で訳出している様子。日本語読者はディムホルトと書かれても風景が想像できる人は少ないのでは? 翻訳者による読みやすさへの配慮の結果、補う言葉が追加されたのでしょう。こうした翻訳に変わったところは他にもあります。「砂色頭のサンディマン」(旅の仲間)とか「奥深いヘルム峡谷」(二つの塔)も同様です。

先ほどのトールキンの覚書の引用に戻ってみましょう。トールキン教授は dim を「obscure, secret」と説明しました。英語辞書をひくと obscure は「小暗い」のように訳にすることもできそうですが、dim を説明したもう一つの語 secret であることはあまりわからないんですよね。原語の持つニュアンスを限定することになる翻訳の悩ましいところだと思いますが、上記の引用を翻訳する際、わたしは secret とも類似しそうな「隠れた」という語義を使って翻訳をしてみました。

この dim のように現代英語にも同じ言葉のある固有名詞は、英語を母語とする人のほうが気が付けないかもしれませんね。字面は同じですから、今の英語での意味だと思ってしまうんじゃないでしょうか?(想像でしかありませんが)。 『指輪物語』を英語ですらすらと読めたらいいなと願う人は少なくないと思います。でも、英語が母語じゃないからこそ、訳が見直され、それの意味を探ってみるという機会も得られるというものです。

ディムホルトをずっと奥に入っていくと「暗黒の入口」があって、その先が死者の道になっています。昔、アルドル王の兄バルドルは死者の道から帰ってきませんでした。だからそれが本当にあるのかどうか、聞かせてくれた人はいないのです。あるのは、不確かな言い伝えだけ。

アラゴルン一行が死者の道を進んだ時、セオデンは「予はアラゴルン殿には二度とお会いすることがないような気がするのじゃ。」7と言います。これは確かにペレンノールの合戦後に事実になります。けれどこの時セオデン王は自身よりアラゴルンの身を案じてこのように語っていると受け取れるように思います。エオメルもエオウィンも、アラゴルンのたどる道を聞いて取り乱した様子が描かれました。

こうした記述から、ローハンの人々はディムホルトに対して正体のつかめない隠されたものへの恐怖を抱いているように感じられます。ローハンの人たちが抱くこうした感情からつけられた名前がディムホルトだったのではないかと思うのです。

荒角山からスタークホーンへ

Starkhorn
旧版
荒角山
新版
荒角山
最新版
スタークホーン
※固有名詞便覧中では「荒角山」表記のままでした。

Starkhorn は「荒角山」から「スタークホーン」へ変更されました。ここまでに挙げた地名と同様に、トールキン教授はこれも訳さずにそのままにすべし、と書いています。この stark という形容詞は、今の英語にはもともとはなかった「むき出しの」とか「荒涼とした」という意味があるみたいです。けれどこれはローハン語なので「大きな釘のように硬くそびえる角」8だということ。

スタークホーンは、本文にも「ぎざぎざの頂」を持ち、「万年雪に包まれ」9ていると説明されているので、スタークホーンがどんな山容なのかは想像しやすいですね。エドラスの近くにはスタークホーン、精霊山、イーレンサガ(アイレンサガ)と高山が並んでいます。大迫力だろうと思います。

ローハンの地名の変更は他にもあります。漢字表記のまま見直された固有名詞と、地名らしくなった地名なので、記事を改めて考察する予定です。どちらもおもしろい話が出てきますよ。お楽しみに。

出典

  1. ^Wayne G. Hammond and Christina Scull (eds), The Lord of the Rings: A Reader’s Companion, Revised Edition, “Nomenclature of The Lord of the Rings”, pp. 759, 772
  2. ^J・R・R・トールキン(著) 瀬田貞二・田中明子(訳)『指輪物語 追補篇』 Apple Books (version 1.1), 追補F, 評論社, 2020年
  3. ^Wayne G. Hammond and Christina Scull (eds), The Lord of the Rings: A Reader’s Companion, Revised Edition, “Nomenclature of The Lord of the Rings”, pp. 770-1
  4. ^Wayne G. Hammond and Christina Scull (eds), Ibid., pp. 769-70
  5. ^Wayne G. Hammond and Christina Scull (eds), Ibid., pp. 778
  6. ^Wayne G. Hammond and Christina Scull (eds), Ibid., p. 768
  7. ^J・R・R・トールキン(著) 瀬田貞二・田中明子(訳)『指輪物語 王の帰還』 Apple Books (version 1.0), 三「ローハンの召集」, 評論社, 2020年
  8. ^Wayne G. Hammond and Christina Scull (eds), The Lord of the Rings: A Reader’s Companion, Revised Edition, “Nomenclature of The Lord of the Rings”, p. 776
  9. ^J・R・R・トールキン(著) 瀬田貞二・田中明子(訳)『指輪物語 王の帰還』 Apple Books (version 1.0), 三「ローハンの召集」, 評論社, 2020年

この他、参考文献は「日本語版『指輪物語』の改訂(2020年)特集」トップに掲載しています。