The Study of Bag End

『指輪物語』改訂から浮かび上がる固有名詞の持つ意味―ホビット庄の地名

2020年に発売された『指輪物語』電子書籍版は、これまでの翻訳が見直され、多くの固有名詞が変更されました。『指輪物語 追補篇』を読むと、『指輪物語』は中つ国で西方語または共通語と呼ばれている言語をトールキン教授が英語に翻訳した本なんです、ということが書かれています。

Bag End はバッグ・エンドではなく“袋小路”、Rivendell はリヴェンデルではなく“裂け谷”と翻訳されるおかげで、日本語話者でもその語の持つ意味が理解でき、瞬時に風景を思い描くことができていると思いませんか?

今回、このような共通語の固有名詞にも変更がありました。そのおかげで、トールキンが固有名詞で示した意図をより汲めるようになったと思うものが多くありました。ホビット庄は主人公フロド・バギンズの故郷でありながら、外の土地へ旅する物語ですから、実は作品中にホビット庄の地名が出てくる頻度は少ないのです。それゆえ、なじみの薄い地名もあると思いますが、トールキンが地図を描いた時に風景もまた思い描いていたのだろうということが地名の固有名詞からうかがえます。

名詞に関してこうした深堀りする時に頼るのは、「『指輪物語』の名前 (‘Nomenclature of The Lord of the Rings’)」です。これは「The Lord of the Rings, A Reader’s Companion」に収録されています。わたしの手元にあるのは、2014年に HarperCollins から刊行された 60th Anniversary edition。加えて、イギリスの地名の由来が載っている「A Dictionary of British Place-Names」(Kindle版)も確認しました。

改訂された地名をさっそく見ていきましょう。以下は、トールキン教授の記述をもとに、改訂にあたったみなさまがどうとらえたのかを推測したものであることにご留意のうえお読みください。

改訂されたホビット庄の地名

※最新版の五十音順
※旧版、新版のルビは省略しました
旧版、新版、最新版とは?
※変更点を網羅するものではありません

蛙村から蛙沢へ

Frogmorton
旧版
蛙村
新版
蛙村
最新版
(かわず)

旧版から“蛙村”と訳されてきた地名は、最新版で「蛙沢」に改訂されました。‘Frogmorton’ は frog + moor + town に分けられるそうで、‘town’ が ‘ton’ になっているのは、ホビット村の ‘Hobbiton’ と同じですね。‘Frog’ は蛙ですよね。では、‘moor’は?

ところで、‘Frogmorton’ に似ている ‘Frogmore’ という地名は、イギリスのバッキンガムシャーに実在するそうです。バッキンガムシャーのほうの ‘Frogmore’ の地名辞典を引いてみると「蛙がよく来る池(pool frequented by frogs)」と書いてあります。

そして、トールキン教授もこの ‘moor’ とか ‘mor’ は、‘marshy land’(湿地帯)ですよ、と説明しています。

緑竜館のある水の辺村の池から東へ川が流れ、ブランディワイン川へ向かう途中にある蛙沢は、つまり、蛙の鳴き声が聴こえて、柔らかくぬかるんだ土壌の湿地帯なんですね。

『指輪物語』でフロドたちが蛙沢に赴くのは、南の旅から戻った後。11月なので蛙はいなかったんじゃないかと思いますが、夏なら浮木亭で一杯飲む時にも蛙の大合唱が聴こえてきたかもしれません。

(‘town’ の要素があるということは、ホビット村のように蛙沢村にするのもありですか?)

A Reader’s Companion, p. 771 参照

堀窪からくり窪へ

Crickhollow
旧版
堀窪
新版
堀窪
最新版
くり(くぼ)

くり窪はとてもいいと思いました。

地面に穴を掘って暮らすホビット族の住居に「堀窪」という名前がついていたら、袋小路屋敷のような穴住まいを想像するかもしれません。けど、くり窪(旧堀窪)はこのように書くからには、穴ではないんですよね。

「できるだけホビット穴に似せて造られていました」
「旅の仲間」第五章「正体をあらわした陰謀」

crick + hollow で「窪」は ‘hollow’ ですが、‘crick’ というのがよくわかりません。トールキン教授も廃れて不明瞭になった言葉だと説明しています。この語を翻訳する時には翻訳される言語のつづりで ‘crick’ を残すように、とのことなんですが、‘クリック窪’ っていうのはちょっと……。

ところが偶然、日本語には「くる(漢字では‘刳る’)」とか「くりぬく」という表現があるわけです。

国語辞書は「くる」を「器具を使って、くぼみや穴を作ったり、そのような図形を作ったりする。えぐる。」と説明します。

くり窪までの道のりの最後の行程を、トールキン教授は『指輪物語』の中でこう説明します。

「道は上りになったり、下りになったりしました。」
「旅の仲間」第五章「正体をあらわした陰謀」

こうした風景描写にくり窪という地名はピタリと合うように思いました。

ただし、くり窪が袋小路という名称のようにフロドの家を指す地名なのか、辺り一帯を指すものなのかは議論があるようです。

A Reader’s Companion, pp. 92-3, 768

小泉から白泉へ

Whitwell
旧版
小泉
新版
小泉
最新版
白泉

ピピンがベレゴンドの息子ベルギル(新版まではベアギル)と出会って自己紹介する時のせりふを引用します。ピピンとベレゴンド、ベルギルとの交流の場面は、執政家以外のゴンドール人の気質が感じられますし、いい場面ですよね。

「ぼくの父はね、ホビット庄タックバラに近い白泉一帯の土地の地主だよ。」
「王の帰還」第一章「ミナス・ティリス」

ピピンのお父さんはセインですから、立派なホビットです。タックバラというのはもともとタック村でした。

ところで「白泉」はこれまでは「小泉」でした。

‘whit’ は「ほんのわずか」を意味するやや古い言葉だと辞書は説明します。旧版ではそこから「小」と翻訳されたのでしょうね。

「『指輪物語』の名前」の同様の語根 ‘whit’が含まれる ‘Whitfurrows’ を見てみると ‘whit-’ は ‘white’ の短縮語だとトールキンは説明しています。「小さい」んじゃなくて「白い」んですね。

「白泉」の英語 ‘Whitwell’ は、イギリスに実在する地名だそうで地名辞典にも載っています。「白い泉または流れ」の意味だそうです。

トールキン教授は、イギリスの地名の場合、たいていは土壌の色にちなみますよ、とも書き添えています。

これは、ホビット庄の地理を思い出してみるといいですね。東街道をホビット村よりさらに西へ向かうと、大堀町があります。この一帯は白が丘連丘といって、その名前から推して石灰岩(チョーク)の地層だったのではないかということです。タックバラがあるのは緑山丘陵ですが、白が丘連丘もそう遠くなく、地層も同じものだったかもしれませんね。

A Reader’s Companion, pp. 28, 779 参照

町役場から役場穴へ

Town Hole
旧版
町役場
新版
町役場
最新版
役場穴(タウンホール)

これは厳密に言えば地名ではなく施設名ですが、タウン・ホール。よく見ると原語は ‘hall’ でなく ‘hole’ とつづられています。これはなんともホビットらしい施設名でトールキンの遊び心のある命名です。改訂されたことによりこのことがわかるようになりました。

それに、他にも留置穴(Lockholes)があり、屋敷穴(hole)があるので、建物に「穴」があるのはホビットとしては自然のように感じられますよね。ここは改訂してくださってよかったと思います。

A Reader’s Companion, p. 155 参照

ひじりこの浅瀬からバッジ浅瀬へ

Budgeford
旧版
羊皮の浅瀬
新版
ひじりこの浅瀬
最新版
バッジ浅瀬

改訂ごとに変更される ‘Budgeford’。-ford が浅瀬で渡し場。オックスフォード(Oxford)も牛の渡り場だったことに由来するそうです。ところで Budge- は?

当時つまり第三紀の終わり頃には、Budge- にはっきりとした意味はなくなっていたようです。バギンズ家とも親戚関係にあるボルジャー家(Bolger Family)が ‘Budgeford’ に住んで以来、bolgebudge に訛ったのかもしれない、とトールキン教授は書いています。

ちなみに、イギリスには Bolger さんも Budger さんもいらっしゃるそうで、どちらとも意味は体がふっくらしていることを表すんだそうです。

ボルジャー家といえば『指輪物語』の中では「でぶちゃん」のニックネームで親しまれたフロドたちの親戚のフレデガーがいます。ずんぐりしてることを表すボルジャーの姓を持ちながら親友たちに「でぶちゃん」と呼ばれるのですから、その家系の中でも体格が良かったのかもしれません。単に友人たちの中でいちばんでぶちゃんだったからかもしれませんけどね。

それで、地名に話を戻すと今回「バッジ」はなぜカタカナ表記になったのかが気になるところです。トールキン教授は、ボルジャー家の姓は翻訳しないようにと書いているんですよね。バッジ浅瀬はボルジャー家の Bolge の要素が訛ったもの、ということなので、ボルジャー家の姓も、地名のバッジも、日本語の場合はカタカナ表記に、ということが、今回のバッジ浅瀬の改訂の真相だろうと思います。

A Reader’s Companion, p. 767 参照

参考文献

日本語版『指輪物語』の改訂(2020年)特集トップ