The Study of Bag End

新版 ホビット ゆきてかえりし物語 <第四版・注釈版>

日本語で読める「ホビット」には、岩波書店刊で瀬田貞二氏翻訳の『ホビットの冒険』と原書房刊で山本史郎氏翻訳『ホビット ゆきてかえりし物語』の2種類があります(以降は敬称略で前者を瀬田訳、後者を山本訳と表記します)。トールキンファンが口をそろえて勧めるのはほとんどの場合において瀬田氏の『ホビットの冒険』であり、同時に山本訳に関するネガティブな意見を耳にするかもしれません。私の場合も、最初の読書に勧めるのは瀬田氏の『ホビットの冒険』であることに変わりはありませんし、瀬田氏のテキストを通じて読む中つ国の世界には何にも代えがたい良さを感じています。

翻訳に関しては賛否両論あり、インターネット上でいくらか見つけることができますので割愛します。物語の部分に関して言えば、どちらの版を読むかは他人の意見よりも、書店や図書館で両方を手にとって自分に向いている方、読みやすいと感じた方を選ぶのがよいのではないでしょうか。

書籍について

山本訳の『ホビット ゆきてかえりし物語』は、『The Annotated Hobbit(注釈つきホビット)』の日本語訳版です。原書は純粋に物語を楽しむ書籍ではなく物語を解説する研究書で、トールキンのテキストに注釈がつくスタイル。ホビットの物語に取り入れられたのであろう詩や物語のエピソード紹介、改訂歴の他、著者や物語の世界へ理解を深めるための解説や、各国版の挿画が掲載されています。

その訳書である『ホビット ゆきてかえりし物語』は、1997年に初版、2012年に改訂して新版が発売されました。翻訳版では注釈の一部が省略されています。また、原書には豊富に紹介されている挿画を省略した理由は見当たりませんでした。各国の挿画が見られることは原書のメリットであり、挿画に脚注がついているものもあるので省かれていることは残念に思います。

「(前略)注釈等のテクストの変遷を記した箇所で、ミスプリントの修正、英語表現の微細な書き換えなど、日本語で『ホビット』を楽しむ読者にとって意味のないものは省略しました。また、アメリカの読者の便宜のためにイギリス英語の用法を説明した注釈も省略しました。」

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瀬田訳につけられた寺島龍一氏の挿画が複数掲載され、またトールキンがそれをどのように受け取ったのかが紹介されています2。トールキンが『ホビットの冒険』のハードカバー版を手に持った姿が1966年に撮影されています3。これは日本のファンにとってうれしいことで、ぜひ知りたいエピソードではないでしょうか。

原書ではトールキンのテキストの真横に注釈がつけられ読みやすいのですが、訳書では後注となり、この書籍を真に必要とするであろう読者の便宜は後回しにされています。

読者想定

山本訳は、瀬田訳と同じく物語を読むことが大前提で書籍の体裁が作られています。それは山本氏による訳者あとがきにも表れています。

(前略)どちらかというとヤングアダルト以上の読者を装丁していた旧版の方針を転換して、新たに年少の読者への配慮もじゅうぶんにおこない、できるだけ易しいことばや表現を用いるように努めました。

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おそらくは同じ土俵に立つことを願ってのことであろうし、複数の訳者の中から自分に合ったものを選べる状況は読者によっては歓迎できる環境のはずです。ところで、ヤングアダルトの年齢層は13才から19才。それより年少の読者は小学生です。決めつけるような表現にはしたくないのですが、研究書という特性上この書籍はもう少し上の年齢になってからでないと、理解することが難しいか手に取りにくいのではないかと読んだ感想として持っています。

注釈の価値

この書籍は研究書・解説書としての資料価値が高いです。邦訳が出版されていない『The History of Middle-earth(中つ国の歴史)』シリーズやトム・シッピーの『The Road to Middle-earth(中つ国への道)』に記載されている内容に言及されたり、トールキンの物語創造のモチーフや題材の由来、ホビットの物語の改訂の変遷がわかり、興味深い内容が豊富に収録されています。訳書では一部省略されたとは言え、じゅうぶんに読み応えのあるものです。

こうした注釈は、トールキンの書籍をいくらか読み、さらに知りたいと思った読者こそ、大いに価値を見いだせるのではないでしょうか。

山本訳に対する根強い批判が一部のファンのあいだにあります。瀬田訳の世界観で提示された中つ国に愛着があればあるほど、拒否反応は強いかもしれません。かくいう私も以前は「読みにくい」という批判一辺倒でした。言語感覚は人によってさまざまでしょうし、少数ながら山本訳の方が読みやすいという方も見かけます。また、ある程度は慣れもあるのではないでしょうか。批判が注釈版へのアクセスの妨げにならないことを願います。

書籍リスト

Footnotes

  1. ^J.R.R.トールキン著, ダグラス・A・アンダーソン注 『新板 ホビット ゆきてかえりし物語<第四版・注釈版>』 山本史郎訳 原書房 2012年
  2. ^J.R.R.Tolkien, Douglas A. Anderson, The Annotated Hobbit: Revised & Expanded Edition, Houghton Mifflin 2002 p.96
  3. ^発見された「中つ国の建国スケッチ」と、トールキンの執念』 WIRED 2016年3月15日公開 2016年8月12日閲覧
  4. ^J.R.R.トールキン著, ダグラス・A・アンダーソン注 『新板 ホビット ゆきてかえりし物語<第四版・注釈版>』 山本史郎訳 原書房 2012年

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