The Study of Bag End

トゥック翁の頃の中つ国

この記事はトールキンアドベントカレンダー 3日目の記事です。

ビルボは西方へ旅立つ数日前に131歳になり、トゥック翁の年齢を追い越しました。トゥック翁はホビット庄で(もしくはトゥック家の子孫にとって)最も長寿のホビットとして知られていました。

彼は本名をゲロンティウスといいセインをつとめ、ガンダルフとも親交を持っていました。彼は丸面家のアダマンダと結婚して12人の子供がいました。そのうちの四男の子孫にピピンとメリーがおり、八男の子孫にフレデガー、一女の息子(トゥック翁にとっては孫となる)にビルボがいて、三女ミラベラの娘プリムラの息子がフロドにあたります。

トゥック翁は生まれたのは、フロドが旅に出る228年前に遡ります(第三紀2790年)。彼が生きている時代の中つ国北西部はどんな状態にあったのかを見てみましょう。

ドワーフ

トゥック翁が生まれたのは、トーリン・オーケンシールドの祖父スロールがモリアでアゾグに殺害されたのと同じ年です。これがドワーフとオークの戦争の発端となり、数年後にはモリア西門でナンドゥヒリオンの戦いが起こりました。この時の戦いでアゾグは鉄の足のダインに斃されましたが、スロールの息子スラインはモリアへ入ることを止められ、褐色人の国に戻った後放浪し、青の山脈に仮住まいを築きます。しかしスラインはのちにドル=グルドゥアに幽閉され非業の死を遂げます。
フィーリ、キーリはエレド・ルインで生まれ、その15年後にギムリが誕生しました。ビルボがエレボール遠征に加わったのはトゥック翁がなくなった後のことです。

白の会議

ガンダルフがドル=グルドゥア潜入をし、幽閉されているスラインを見出したのはこの時です。翌年の白の大会議でガンダルフは襲撃を勧めますが、サルマンに却下されました。ガンダルフはトゥック翁が生まれる前にあった長い冬の際にすでにホビット庄を訪れたことが記録に残っています。また、サルマンがアイゼンガルドに居を構えたのはローハン王のフレアラフの即位と時を同じくするため、トゥック翁の誕生よりも32年遡ります。

ローハン

2759年からフレアラフが第二家系の王統を設立して32年目にあたる年にトゥック翁が生まれました。数年後、ドワーフとオークの戦争の影響で行き場をなくしたのか、霧ふり山脈から下ってきたオークに国土を騒がされることとなりました。トゥック翁の時代にローハン王は五世代の代替わりがありました。フレアラフ、ブリッタ、ワルダ、フォルカ、フォルクウィネ、フェンゲルです。

ゴンドール

この時の執政は第20代ベレゴンド(デネソール二世は第26代)。ベレゴンドは「(執政の)ボロミア以後ゴンドールに現れたもっとも偉大な大将」と言われ、昔日の力を取り戻し始めました。トゥック翁の時代にゴンドールの執政はベレゴンド、べレクソール二世、ソロンディア、トゥーリン二世、トゥアゴンと続きました。トゥアゴンの後、エクセリオン二世が続きます。ハラドリムからの襲撃を受け、ローハンの救援を受けています。この時、フォルクウィネの二人の息子は南の地で討ち死にしました。

ドゥネダイン

族長はアラソルン一世でした。彼は詳しく語られてはいませんが、討ち死にしたという記録があります。トゥック翁の時代には、アラソルン一世、アルゴヌイ、アラドールが族長を注ぎます。アラドールはアラゴルン二世の祖父ですが、アラドールとその息子のアラソルン二世は短くして命を落とします。なお、トゥック翁とアラゴルン二世は141歳差があり、ドゥネダインにはまだまだ辛い試練の時期が続きます。また、この間に2911年の極寒の冬があり、ブランディワイン川などが凍結しました。

警戒的平和はトゥック翁の時代のはるか前に過ぎ去り、各国で争いは絶えず起きているような状況であることがわかります。特にドワーフにとって辛い時期でした。また、その影響がローハンにも及んでいます。エレボール遠征から歴史をさらに遡ってもトールキンは細かく年表を作成していました。物語として読むことはほとんどできませんが、各国の相関を見ると何が起きていたのかより具体的に見えてきます。

Refferences

  • J.R.R.トールキン 『新版 指輪物語:追補編』 瀬田貞二・田中明子訳 評論社 1992年

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